1859 安政6
江戸末期1859年にスイス人ステレオ写真家ピエール・ロシエが長崎に来日し、その後1860年まで滞在しました。ステレオカード出版もやっていたロンドンの光学機器メーカーNegretti and Zambra社の委託で撮影と営業を兼ねての来航でした。
滞在中には長崎の上野彦馬など日本の第一世代写真家に湿式写真を伝授し、長崎や横浜など日本各地でステレオ写真やパノラマ写真を撮影しました。撮影されたステレオ写真は1860年4月からNegretti and Zambra社より『View of Japan』シリーズとして発売されました。
横浜が写っている最古の写真はピエール・ロシエのステレオ写真だった
1861 文久1
1月にフランス人写真家アントワーヌ・フォシュリーとシャルル・ルイ・デズィレ・デュパン大佐が横浜に来日
アントワーヌ・フォシュリー(1823-1861)はパリで画家、建築家、木工職人、ジャーナリストとして活躍した後、オーストラリア・メルボルンへ渡り山師となりました。山師としての成功はかなわず帰国して、友人である著名な写真家ナダールより写真を学び、1857年に再度オーストラリア・メルボルンへわたり、写真館を開き1858には写真集『Sun Pictures of Victoria』を出版するなどして写真家として活躍しました。1859年2月にはメルボルンを出発しフィリピンのマニラを経由して、1860年6月中国・上海に到着、フランス軍の公式特派員としてアヘン戦争を取材しました。上海より中国での指揮官であったデュパン大佐とともに1861年1月に日本の横浜に到着しました。そしてその3ヶ月後の1861年4月27日に横浜で亡くなりました。(死因は不明)その3ヶ月の間に撮影したステレオ写真はその後フランスのFerrier & Soulier社より出版されました。
""デュ・パンはフランス参謀本部付大佐で1861年1月に長崎に来日、その後、横浜に移動する。3月に駐日フランス公使ベルクールに使える為、江戸に住む。フォシュリは来日前の上海でデュ・パンの写真撮影の補佐をして、一緒に来日。二人はチームで撮影を行っていた。"(クリスチャン・ポラック『百合と巨筒』より)
*推測に過ぎませんが、1861に描かれた歌川芳虎の『外国人遊行之図 仏蘭女人』のモデルがアントワーヌ・フォシュリーではないかと日本では語られることがあります。当時、横浜に夫妻で滞在していたフランス人写真家はアントワーヌ・フォシュリーしか確認されておらず、さらに日本でステレオ写真を撮影していた事によります。
1859年に横浜港が開港し1860年に外国人居留地が設けられました。この絵は、そこで生活する外国人の生活を描き大人気を博した浮世絵で『横浜絵』と呼ばれています。
*アントワーヌ・フォシュリーはパリで活躍していた時代はボヘミアンサークルに属し、数多くのの著名な芸術家との交流があったこともあり、オペラ「ラ・ボエム」の原作に登場する画家のモデルとしても有名です。
下岡蓮杖と謎のG.A.B. Stereoview Series (Shimooka Renjo and the Mystery G.A.B StereoviewSeries by Terry Bennett & Rob Oechsle)
「下岡蓮杖がステレオ写真撮影した初の日本人ではなかろうか」というミステリー
1862 文久2
上野彦馬が化学書『舎密局必携』刊
巻三 附録「撮形術ポトガラヒー」は湿板写真の解説書で、ステレオカメラが日本で初めて掲載された書籍
1869 明治2
日光で横山松三郎がステレオ写真を撮影
日本人が撮影した現存する最古のステレオ写真。横山松三郎『日光 竜頭滝』
"横山松三郎、門弟と人夫10人で日光全山の撮影を行い、深山の瀧など景勝地を写真で紹介するが、ステレオ写真でも日光全山の瀧や景勝地を写す。日光の写真は、下岡蓮杖と松三郎によるもので、徳川家に献上したといわれる。"(千代 肇『西洋画・写真術の先覚者横山松三郎伝と函館博物館所蔵品より』
1889 明治22
日本初の写真クラブ日本寫眞會発足
母国英国において乾板の研究で大きな成果を上げていたW.K.バートン(1856-1899)が明治1887年に英国より来日して工部大学校(現・東京大学工学部)の教授(衛生工学)に就任しました。
乾板の登場により、それまでの湿板と比べて大幅に簡易に写真撮影、現像が可能となり、写真先進国ではアマチュアの写真愛好家が誕生する時代が到来していました。バルトン先生(W.K.バートンさんの日本での愛称)来日はそんな時代を極東の日本にももたらす大きなきっかけとなりました。まさに日本の写真界にとって乾板アマチュア写真伝導師としての来日でした。
そんなバルトンさんに注目していた写真家・小川一真の発案で、写真大尽・鹿島清兵衛が会のパトロンとなりこの3人を中心に日本寫眞會は設立されました。
発会当時は榎本武揚を会長として政財界人、学者、駐日外国人などの写真愛好家を中心に、業界関係者も含めた56人で発会し、後には多くのアマチュア写真愛好家が集まり150名ほどの会となりました。
バルトンさんは1896年5月22日東大本郷で開かれた日本寫眞會の年会に双眼寫眞(ステレオ写真)数葉を出品されています。(写真月報1896年6月号) しかし、これらのステレオ写真は残念ながら焼失または紛失したといわれ、バルトンさんのステレオ写真は現存していません。
1897年に鹿島清兵衛が没落、1899年バルトン先生が病没し、その後まもなく残念ながら短期間で会が消滅しました。
1892 明治25
T.Enamiの江南寫眞店が横浜市弁天通1丁目9番地でオープン
江南信國がT.Enamiブランドでたくさんの外国人向けにステレオカードの制作・販売を行った。Yokohama Japan, Sold only by T.Enamiと書かれた美しい手彩色されたステレオカードなど、1908年発行の写真カタログ"CATALOG OF COLORED LANTERN-SLIDES AND STEREOSCOPIC VIEWS T.ENAMI"には1100点あまりのステレオ写真がリストアップされています。また、米国でもSEARS, ROEBUCK & COなど数社からたくさんのステレオカードが販売されました。
"江南は少なくとも二つの世界の狭間にいた。例えば、一方で彼が消え去り、透明な日本の景色を提供することを望む市場があり、他方では、美と影響を求める彼自身の芸術性と技巧があった。"(Jonathan E. Abel著『The New Real - Media and Mimesis in Japan from Stereographs to Emoji』より)
1903 明治36
萩原朔太郎が17歳でステレオ写真の撮影を始める。
"とにかく僕にとつては、このステレオスコープだけが、唯一無二の好伴侶だつたのである。そしてこれには僕自身の爲に必然の理由があるのだ。" 萩原朔太郎『僕の寫眞機』(アサヒカメラ 第28巻第4号 昭和14年10月増大)より
"父が写真に興味を持ったのは明治35年中学生の頃で、写真機を当時65銭で買ったそうだが、翌年5月大阪の父親の実家へ行った時には、もう立体写真機で、風景を撮ったりしていた。"
"中学生時代から、晩年まで立体写真を覗き(外国製の既製品の写真も覗いていた)、亡くなる前、病床に伏してからも枕元に置いてあった。" 萩原葉子『父と立体写真』(のすたるじあ)より
1905 明治38
『あなたも慶喜公気分』(日本唯一のステレオ史跡)
最期の将軍・徳川慶喜が千葉県松戸市、戸定邸近くの坂川でステレオ写真を撮影。
1917 大正6
日本初のステレオ写真集『投入盛花実体写真百瓶』が出版された。
1921 大正10
佐藤サンエス堂がオープン
当時、日本唯一のステレオ機器専門店(輸入/販売)。場所は神田區猿楽町ニ四、現在の神保町1丁目。
"一年といへば長い月日の様ですが過ぎ去った後から鑑みると驚かれるほど短かいものですサンエス堂が開業したのはつい二三ヶ月前の様に思はれますが十一月十五日で丁度満一年になるのです" 寫眞藝術 寫眞藝術社1922年11月号掲載の広告より
"大正の初年に神田神保町に佐藤サンエス(佐藤周輔氏経営)が私の意見を容れてくれて盛んにステレオカメラと全装置の輸入販売店を開いた。恐らく此店以外に以前にも以後にも日本にはステレオの専門店はないであろう。佐藤氏自らがステレオに熱中した結果でもある。" 「私とステレオ」(吉川速男 カメラと五十年 1947年光畫荘)より
1923 大正12
日本双眼寫眞會が設立された
日本における初代ステレオ写真エバンジェリストである吉川速男と日本初のステレオ専門店主である佐藤周輔が設立した日本初のステレオクラブです。
"吉川速男氏、佐藤周輔氏の主唱で日本双眼寫眞會が設立された。本誌で双眼寫眞の興味ある記事を讀まれた人々の熱望するものであると思はれる。規則書入用の方は神田區猿楽町ニ四佐藤サンエス堂へ郵券二銭封入申し込まれたい。近頃での面白い會であろう。"寫眞藝術 寫眞藝術社1923年4月号、寫眞通信より
"尙著者は此寫眞術を研究し且一般に普及する目的を以て此度日本双眼寫眞會を設立した事も記して置き度い。即ち右寫眞術の研究の外展覽會、競技會を催し、且つ材料を選擇し、不斷に之を用意して實體寫眞研究家の便を計る目的である。"吉川速男『写真術の新研究』1923より
吉川速男(1890-1959)は1921年から写真関連の著述を始め、亡くなる1959年までに著書は200冊(島和也 談)を超えました。
ステレオ関連の著述も多く「私のステレオは毎々云う如く私のあらゆる寫眞の中の中心を為すものであつて震災後は一層これに力を入れる事にしている」 と『私とステレオ』という随筆(『カメラと五十年』光画荘1947刊)に記しています。
また、父・吉川兼吉、長男・吉川暢亮、孫・島和也の4代続いたステレオ愛好家一族の中心的なで存在でした。孫の島和也は1979年に名著『ステレオ写真入門』の著者で、1982年に発足したJ.A.S.P.A.日本アマチュアステレオ写真研究会の会長をつとめました。
“(祖父は)吉川速男というんです。今でも神田あたりの古本屋に時々出ていますけど、おそらく二百何冊、ステレオ写真に限らず写真の指導書を書いてました。明治30年生まれですからね、大正のあたりからでしょうねぇ。大学を出てからだと思います。祖父はステレオカメラに限らず、映画も撮ってました。8ミリとか、9.5ミリのパテエとか、16ミリといった、主に小型映画と称するものです。ですから通常の写真と小型映画と、ステレオ写真の指導書的なものを書いていたわけです。いずれもアマチュア向け・初歩向けの本でした。祖父の時代は写真をやること自体が、構えてやらないとできない時代だったんです。写真をするということは、引き伸ばしなども自分でやるわけですから、今みたいに片手間で出来なかったんですね。” 「日本ステレオ写真の系譜」島和也さんに聞く 『ステレオ-感覚のメディア史』(1994)より *吉川速男の生年は明治23年1890年
1930 昭和5
吉川速男によるステレオ写真入門書『双眼写真の第一歩』刊
1936 昭和11
日本で3D映画が映画館で初上映となる『Audioscopiks』が封切
1938 昭和13
宝塚少女歌劇団星組がシャドウグラフ・ショー公演
赤と青の証明光があたった踊り子の影をアナグリフ眼鏡をかけた観客が立体視して楽しんだ。
1947 昭和22
吉川速男が同年アメリカで発売されたステレオリアリストを日本で初めて紹介
"然し私の過去のステレオは最早時代遅れの運命になり新たな映画フィルムをお用いて四角に写す24☓24ミリのものに一般もなって行く事を明言出来る。既にアメリカでは此サイズの新式ステレオ機であるステレオレアリストと低級機としてはトリヴィジョンと云うものを発表して居る。
色々の意味に於てアマチュアカメラに映画フィルムを使用する事が今後最も確実なものと考えられる今日、ステレオに於ても大体映画フィルム使用機が勢力を張るに到る事は当然の事と思うからである。" 「私とステレオ」(吉川速男 カメラと五十年 1947年光畫荘)より
1950年にはステレオリアリストが日本に一台だけあるようだと書いています。
"戦後のアメリカの寫眞雑誌を見た方は、35ミリフィルムを使う高級の「ステレオ・リアリスト」(Stereo Realist)というカメラと安物と、単玉付ベーク製で思いきった流線型の「ハニール・トリビジョンカメラ」(Haneel Tri-vision Camera)という二種の新製品の廣告を見られたであろう。リアリストの方は一個東京の某祉が所有してゐるそうである。又後者の方はいつぞや紳出の材料店に中古品として出ているのを見た。" 吉川速男「誰でもどんなカメラでも簡單に出來る楽しいステレオ写真の作り方」光画月刊 1950年8月号より
1953 昭和28
国産初の3D映画が封切られた。東宝制作の『飛び出した日曜日』『私は狙われている』短編2本。
1955 昭和30
35mmステレオカメラ『STEREO LEADER』が東郷堂より発売された。
1957 昭和32
ニコンが『ステレオニッコール3.5cmF3.5』を発売
1950年代のステレオブームにおいてはたくさんのステレオカメラが発売されました。ニコンのこのレンズもその時代に生産されましたが、後発でブームの終熄期に発売されたこともあり、販売数が伸びずに短期間で生産が終了しました。このレンズは100〜200本ほどしか生産されておらず、現在はコレクターズアイテムとして高価格で売買されています。
1972 昭和47
大越孝『三次元画像工学』(産業図書)刊
1974 昭和49
National Stereoscopic Association設立
1975 昭和50
The International Stereoscopic Union設立
1977 昭和52
プルフリッヒ効果を使った3Dアニメ『家なき子』(全51話)放映
1979 昭和54
必携の名著、島和也『ステレオ写真入門』(現代カメラ新書)刊
島和也は吉川速男の孫。
1982 昭和57
J.A.S.P.A. 日本アマチュアステレオ写真研究会が発足した。トーアフォート/ダイヤモンドカメラ代表・岡村明吉が会の発足を発案し、ステレオ写真関係者を招集しました。その中から島和也が選ばれて初代会長に就任しました。島和也は日本初のステレオクラブである日本双眼寫眞會(1923)を設立した吉川速男の孫で『ステレオ写真入門』(1979)の著者です。
第一回のミーティング、発会式が7月4日(日曜日)13時30分から東京の日比谷国際ビルで開催された。
アサヒカメラ10月号には"会員募集中(すでに120余名の方が入会されています)"と記されている。
1984 昭和59
3D関西結成
"3D関西は、1984年4月22日、関西在住の3D写真愛好家9名によって、結成されました。結成当初は 「関西ステレオ写真同好会」と称しましたが、会員も増え、会員の技術も向上して、毎年展覧会を開けるよ うな力量もついてきたので、「3D関西」と改称することになりました。"(ウェブサイトより)
1985 昭和60
つくば科学万博開催
「日立グループ館」「住友館」「鉄鋼館」の3館が偏光方式、「富士通館」(3Dドーム)がアナグリフ方式で立体映像が大画面上映された。立体映像上映が大きな話題となり映像技術万博とも呼ばれ、つくばは3D映像ファンから3D映像の聖地と呼ばれることになった。
1987 昭和62
東京ディズニーランド『キャプテンEO」公開
1992 平成4
5月にテンヨーの『3Dアートポスター』が発売されて、ランダム・ドット・ステレオグラムが大ブームになり、フリービューイング(裸眼立体視)が注目されました。
11月『C.G.(コンピュータグラフィックス)ステレオグラム―驚異の3D』小学館刊が発売されベストセラーになり、その後に数多くのステレオ関連書籍が刊行されました。
細馬宏通がHyoer Card Stack 3D paintをリリース。
”「3D paint ver.5」は裸眼立体視をしながらステレオ描画を楽しむもの。 Command, Option, Controlキーなどを使うと、奥行きのある空間を かなり自由に行き来できる。アニメーション機能もついているので、 使い込むとけっこう楽しい。" (HyperCard stack library: Stereo seriesより)
1993 平成5
太田孝幸、滝本淳助『ステレオ必勝ガイド』刊(1/1)
赤瀬川原平『ステレオ日記 二つ目の哲学』刊(4/1)
高杉弾『楽しいステレオ写真』刊(8/1)
"6月、竹書房文庫『楽しいステレオ写真』の原稿を4日間で書きあげる。"高杉弾年譜より
9月、英国イーストボーンで開催された『第9回ISU1993世界大会』にステレオオタク学会(1991年設立)/脳内リゾート開発事業団(1992年設立)の赤瀬川原平、太田孝幸、高杉弾、徳山雅記、南伸坊、山本千恵子のメンバー6名が全日参加した。
1994 平成6
吉村信+細馬宏通『ステレオ-感覚のメディア史』刊
朝倉秀之『Fish Eyes―モルディブ海中散歩 立体写真集』刊
1995 平成7
三村千絵、後沢明秀、岡野泉(P-Media)制作の『遠近術―CDーROMによる荒俣宏の奇想天外な遠近法』刊
QTVR対応。ステレオグラム作成機能や3D映像が収録されている。
1996 平成8
ステレオクラブ東京起動!
"一回目の例会が12月20日深夜、無事終了しました。
太田孝幸氏による第九回世界ステレオ大会の紹介、さらにステレオテクニックを駆使した太田氏自身の数々の作品の上映で始まりました。クラブ員全員、さすがにPROは違うと大好評でした。
その後、クラブ員の作品の上映となりました。
今回、作品を上映されたのは木村菱二、佐藤進、大谷和利、江藤玲子、岡野泉、三村千絵(敬称略)の6名です。
●木村菱二はステレオカメラを購入してまだ一週間、すでにストロボを改造し、自宅室内の写真をギリギリで間に合わせ上映(拍手)
●佐藤進は撮影現場(佐藤さんはカメラマン)や仕事場をスナップショット。自分で作った黒のマウントがなかなかかっこいい
●大谷和利はモールトン自転車やフレンチブルーミーティングのマニアックな仏製自動車、さらに東京の路上観察風作品など幅広く
●江藤玲子は自宅周辺(佃島)の風景を中心に日本各地の旅の写真を織りまぜて
●岡野泉は今年引っ越した天王洲周辺、その他、山梨、八ガ岳、西山温泉、鳥羽水族館など旅の写真
●三村千絵はカンヌのミモザ(花)に始まり、今年1年の身辺雑記風に。
という感じで予定よりちょっと上映者が少なかったのですが、それでもバラエティにとんだ上映会となったかと思います。それぞれ上映が終わると拍手が起こるなど、ほのぼのとした雰囲気のうちに第一回目の例会が終了しました。また、今回は江藤玲子さんの作品が一番人気でした。
【今回の参加者】江藤玲子、太田孝幸、大谷和利、岡野泉、木村菱二、後沢明秀、佐藤進、桜井徹、芹川宏、立野康一、三村千絵、吉村信、以上11名でした。STEREO CLUB Tokyo: 第1回 STEREO CLUB例会<冬>より"
1999 平成11
STEREO CLUB例会<スペシャル>【Alexander Kleinさんを囲む会】1999年5月22日(金)
ステレオクラブ東京にAlexander Kleinさんがやってきた。ISUとステレオクラブ東京の初めての出会い。
2000 平成12
湯田彰夫のウェブサイト『凸山のステレオ写真 -- Refresh Your Brain』スタート
2023年1月現在、約1万6千ペアの信州の山野草、高山植物、風景などの膨大なステレオ写真が掲載されている。
その他、『ステレオ写真関連書籍』『ステレオカメラとビューアー』など
2002 平成14
デジタルステレオ元年
須藤益司がStereo Photo Makerをリリース
ステレオ写真に関するほぼすべてのデジタル処理ができるWindows Appです。須藤益司はこのStereo Photo Maker以降も他のWin App、さらにiOS、Androidのスマートフォン/タブレット用の数多くのステレオAppを精力的に開発しています。ステレオ愛好家必携のAppを数多く開発した功績は世界中で高く評価され、2015年英国王立写真協会サクスビー・アワード、2016年アメリカ写真協会プログレス・アワードを受賞しました。
ステレオクラブ東京主催『立体写真ランダムショット#1 飛び出す写真にあなたの脳は共振する!』展
世界初の3D携帯電話「ムーバSH251iS」発売
3D液晶、2D-3Dコンバージョン機能搭載
ステレオクラブ東京は3Dデモ画像を提供しました。
ペンタックス オプティオ230
世界初のステレオ写真作成機能搭載のデジタルカメラ
2004 平成16
関口順一のBlog『STEREO Realist 解剖室』スタート。
2006 平成18
関谷隆司のステレオ写真集『3D‐TOKYO』刊
ホースマン3D
ほぼ最後の本格的フィルム撮影ステレオカメラ。ホースマン社の山口甚がプロデュースした製品
トップアイドルグループSMAPが3D映像をショーに取り入れた『Pop Up!SMAP LIVE!思ったより飛んじゃいました!ツアー』全国公演
大人の科学Vol14『ステレオピンホールカメラ』(学研)刊
2008 平成20
前田慧のステレオ写真集『ステレオ写真作品集 立体∞無限』刊
世界中の景勝地をハッセルブラッドで撮影したステレオ写真集
2009 平成21
富士フィルムよりFinePix REAL 3D W1が発売
2011 平成23
ニンテンドー3DS
ステレオカメラとグラスレスフリーディスプレを備える携帯ゲーム機。2020年販売終了時までに世界で7587万台が出荷された。史上、最も普及した3D機器
須藤益司が3DSteroid(Android)、i3DSteroid(iOS)をリリース。
スマートフォンでのステレオ生活が始まる
2012 平成24
STEREO MONSTERSのSachi Empty Ikaさん作成によるステレオクラブ東京の新ロゴ発表
大口孝之、他著『3D世紀 驚異!立体映像の100年と映像新世紀』刊
3D映画の全貌を網羅した世界でも類を見ない大著
2013 平成25
ステレオクラブ東京が『国際3D協会グッドプラクティス・アワード2013・奨励賞』受賞
2017 平成29
ステレオクラブ東京 立体写真/立体映像 20周年記念展示会
2019 令和1
️祝!FinePix Real3D発売十周年記念イベント
2020 令和2
ステレオクラブ東京 第1回バーチャルミーティング及びエキシビション
パンデミック下のバーチャルミーティンクは2022年10月16日まで16回開催しました。
2022 令和4
STEREO CLUB Tokyo 展覧会 2022 in 桶川
2023 令和5
『ISU2023JAPAN ステレオ写真世界大会@つくば』開催
Special thanks to
ilicia benoit (PARALLAX-SHIFT Stereo Club), Matt Sephton, Okinawa Soba (Rob Oechsle), David Starkman, バルトン研究会
年表制作 STEREO CLUB Tokyo
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